古本屋の軒先で、カバーのない文庫本が五十円で売られていた。
聞いたことがない作家でタイトルにも覚えがない。
会社から自宅までは電車で四十分ほど。暇つぶしに買って窓際の席で開くと、文字がやたらと抜けている。特に漢字の脱落がひどかった。
──ぼくは に って へ かった。──
こんな文章ばかりだ。
どこの出版社かと奥付を見るともっとも有名なところだった。
スマートフォンのバッテリーが切れていて、ほかに退屈を紛らわせるものがない。
しょうがないのでパズルのように漢字をあてはめながら読んでいく。そんな芸当ができたのはひらがなの多い作家だったからだろう。どうやら雪山の洋館で殺人事件が起きているらしい。指が滑って何枚か先のページがめくれた。
──ゆきが泣いている。──
見開きのなかで、その一文にだけ漢字がはいっている。
いやもう一字、
──ぼくはカメラを魚 した。──
とおかしな部分に『魚』があって、
──ぼくはカメラを した。──
と消えると、
──ゆきが魚いている。──
に跳ねるように移り、
──ゆきが いている。──
と最後にはなにもなくなってしまった。
どういうことだろう。
まさか……。
ページを繰っていくとほかにも、
──そこは魚 な空間だった。──
が、
──そこは な魚 だった。──
になって、
──そこは な だった。──
と漢字が消えていく。
まるで、文字の魚が餌(えさ)を食べているかのようだ。
おもしろい。ぼくはページをめくって『魚』を追いかけた。『魚』も勢い込んで深いページに潜っていく。よほどひとの目に触れるのがいやらしい。『族』や『場』や『旗』など、それまでになかった食い残しが散見するようになった。
もっと急いで『魚』よりも早く。
一気に五十ページをめくると、ほとんどの漢字が残っていた。ざっと見たところまだ『魚』はいない。待っていると、──夜も深くなったころ、雄一はいやな音で目を覚ました。──というところが、──魚も深くなったころ、雄一はいやな音で目を覚ました。──と変わって瞬く間に、── も くなったころ、 はいやな で を魚ました。──と食い散らかされていく。ぼくは人差し指で『魚』を押さえた。
そっと指を離す。『魚』はおらず空白になっていた。
どうやら物理的には捕まえられないらしい。
ぼくは考え、鞄(かばん)からボールペンを取り出した。──眼が悪いのは知っていた。──という百七十ページの冒頭に、──眼が悪いのは知っていた。針──と書き足す。そこから一筆書きで線を伸ばしてペンを止めた。
線が糸、ボールペンが釣り竿のイメージだ。
いつ引くかわからない。
変化のない文面をじっと見つめていると、──眼が魚いのは知っていた。針──と『魚』が現れてなんの用心もなく、── が いのは っていた。魚──と仕掛けに食いついた。
糸代わりの線が伸びて、くん、とボールペンがもっていかれそうになる。
ペン先を強く振って合わせた。
針が『魚』の上あごに食い込んだらしく手応(てごた)えが深くなる。『魚』はページ下部で右往左往すると見開きの中央部分から上部の章題のところまで逃げていき、しばらく休憩したのち隙をつくように一気に潜水した。
さっきまでとは比べものにならないほどに引きが強い。
このままでは糸が切られてしまう。
ぼくは慌てて空いている場所に円を描いて線を伸ばしていった。本物の釣りと同じで抵抗するなら疲れるまで泳がせればいい。線はどんどんと奥のページに消えていく。ふと張りがなくなった。やっと疲れたのかとページをめくっていくと、二百八十五ページに残された『切』という漢字に引っかかって線が途切れている。
文字通り切られたということか。
それからは、いくら釣り糸を垂らしても『魚』は本の最終章である三百五十二ページの── が魚いのか。──から動こうとしなかった。『針』の周囲に撒き餌(え)代わりの『虫』を並べてみても効果がない。
満腹なのか。それとも、また釣られたくなくて我慢しているだけなのか。
しばらくすると魚は再び泳ぎはじめた。豊富に漢字が残っている百七十ページから最後のページまでを往復し、旺盛(おうせい)な食欲でどんどんと漢字を消していく。もうこちらの視線に慣れたのか食べ残しはほとんどない。
『旅』と『配』と『旋』。
いつまでも餌にならない漢字を眺めていたら、気になってページを戻した。
『族』と『場』と『旗』。
さっきも方偏を食べていなかった。
嫌いなのか。
それでは逆に好きな部首もあるのではないか。
『魚』は『否』『周』『向』と食べていき、次に『柱』『果』『桐』と移っていった。途中に『施』と『族』があったのに見向きもしない。あきらかに口部を優先し、方偏を嫌っているようだ。
餌は決まった。
しかし、まだ釣りは再開しない。
『切』という漢字をボールペンで塗り潰した。
ほかにも『初』や『刃』などの刀部、『列』や『別』などの立刀(りっとう)、『爪』や『引』などの糸を切断しそうな漢字を黒くしていく。何度も冒頭から終わりまでを見直し、一字も塗り残しがないのを確認すると一章の最初に戻った。
ためらいながら『鈷』と書く。
たしかこんな漢字があったはずだ。
これなら『魚』の好物と『針』が一緒になっている。きっと食いつくだろうし返しが獲物を逃がさない。
そのまま右ページの空白に線をためて、引くのを待った。
あれだけの食欲だ。
最後には好き嫌いも関係なくすべての漢字を食べ尽くしてしまうだろう。
『魚』は飢え、きっと浅瀬にあがってくる。
そこには好物の『口』があって──。
ぼくは、そうして食いついてきたところを合わせればいい。
電車が自宅最寄りの駅に近づいてきた。
何駅だって乗り越してやる。釣りあげるまではここから動かない。
── が魚まらない。──
ふっと『魚』が浮かびあがってきた。焦らない。見守っていると『魚』は『鈷』のまわりを何周かして姿を消し、また唐突に現れると針に食いついた。ペン先が大きく揺れる。合わせると、ぐっと針が喉もとをとらえた感覚があった。
『魚』がいなくなる。
深いページに逃げるつもりらしい。
ぼくは無理に引いたりせず、せっせと線を書き足していった。
糸がみるみる減っていく。
逃げるなら逃げろ。
どんなに焦っても糸で繫(つな)がっている以上はいつか釣りあげて──。
ぷつん。
抵抗がなくなった。
まさかそんなばかな、と糸を辿(たど)っていく。
線を断つような漢字はすべて使えなくしていたはずだ。
実際に一字だって本文にない。
ではどこに。
糸は物語が終わっても伸びていた。
奥付にこう書かれている。
初版。
その刀部で糸は終わっていた。
『魚』はいない。
水音がして窓のそとに目を向けると、──白線の魚側は歩かないでください──と『魚』はホームに跳ねていて、──魚内泌尿器科──と看板にとび移ると、それも食べ尽くしてあっという間に街のほうへと消えていった。降りる前にドアが閉まって電車が動き出す。もう追いかけられない。
肩を落として奥付の先を見ていくと最後に大きな漢字が残されていた。
糞
1974年、熊本県水俣市生まれ。東北、北海道と移り住み、いまは東京在住。
趣味は自転車でサイクリングコースを無駄に往復すること。左利き。
ショートショートをはじめて書いたのは小学生のころでした。といっても作文で、『あまんじゃく』という演劇中に舞台裏から布を放らなければならない場面で近くになかったのでクラスメイトに裸になってもらいその上着を投げたという噓でオチをつけたら先生に怒られて没になったというもので、それがいまではこんな賞をいただけて心の底から嬉しいです。ありがとうございました。
非常に優れた作品で、早々に満場一致で優秀賞以上の受賞が決まりました。次々に繰り出されるアイデアに引き込まれ、早くページをめくりたくなり、いつしか主人公と同じように「魚」を追いかけている自分がいます。漢字を使うというアイデア自体は江坂遊「喉が渇くと」や拙作「母の米」などにありますが、また違った味わいです。次の作品で、作者がどういう手を使われるのか、ワクワクします。
読み終えた後からそのおもしろさ、すごさがじわじわと追いかけてきて、すぐに再読したくなりました。古本屋で購入した文庫本が『魚』の泳ぐ沼の役割を果たしているわけですが、そのことをわざわざ説明せず、また主人公がペンと線を使って『魚』を釣ることを思いつくに至るまでの心理描写もないなど、バランスよく無駄をそぎ落としてあるので、実際には起こりえないことながら非常に現実的で臨場感があり、まるで目の前で起きていることのように感じさせてしまう、ハイレベルな良作です。漢字を使うアイデアと物語の設定が無理なく見事にはまった好例と言えるでしょう。他にどんなアイデアを持っているのか、早く次を読みたいと思わせてくれる書き手です。