奈保(なほ)は部屋に帰ると、スーツも脱がず、真っ先にベッドに倒れこんだ。横たわったままストッキングだけを脱ぎ捨て、床に落とした。
何があった訳ではないが、体が重く、疲れている。毎日が同じだ。朝起きて、満員電車に揺られ、会社に行き、家に帰る。
昨日と今日の違いが思い出せない刺激のない毎日。
気が付けば、一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一カ月が過ぎ、季節が変わっている。こんな風にして、一年が過ぎるのだろうか。
特に金曜日は、何の変化もなかった一週間を振り返り、気分が重くなる。深いため息が暗い部屋に広がり、体が一段とベッドのマットレスに沈みこむ。
メイクを落とさないと、と頭の片隅に浮かんだが、体が動かない。
だが明るいチャイムの音に反射的に体が起きた。もう一度チャイムが鳴った。
荷物は実家の母からだった。箱を開けると、古びた革靴が一足入っていた。
チョコレート色の革靴は全体的にくたびれて、革がところどころ剝(は)げている。かかとを潰して履いていたのか、かかとの革が特にやわらかく、崩れている。
持ち上げて靴底を覗き込むと、随分とすり減っている。靴ヒモも乾燥して固くなり、動かしただけで折れてしまいそうだ。
箱には封筒が一緒に入っていた。
『なーちゃんへ
二十五歳の誕生日おめでとう。これを履いて、散歩でもしてみたら。母より』
メモを見て、奈保は今日が自分の誕生日だと思い出した。いや、噓だ。朝から誕生日だと知っていたけれど、祝ってくれる人も特別なこともないから、頭の隅に追いやっていたのだ。
携帯に手を伸ばし、母に電話をした。床に座り、ベッドにもたれかかりながら、コール音を聞く。七コール目を数えたところでつながった。
「荷物届いたよ」
「なーちゃん、お誕生日おめでとう」
電話越しのほころんだ声と同時に、母の笑顔が頭に浮かんですぐ消えた。
顔を横に向けると、口角の下がった疲れ切った顔が黒い窓ガラスに映る。片手でカーテンを乱暴に閉めた。
「ちゃんと食べている? 外食ばっかりじゃ、体に悪いよ。仕事は最近遅いの? そうそう、スーツはちゃんと脱いで、ハンガーにかけとかなきゃ、だめよ。シワになるんだから。なーちゃん、中学生の時から、そう。なかなか制服脱がないでシワにするもんだから……」
まるで見られているかのような言葉にどきりとして、奈保は母の言葉に割り込んだ。
「分かっているよ。もう大人」
強い口調に気圧(けお)されたように、母は「そう」と小さく呟く。と思えば、また嬉しそうに言う。
「靴、見た? これねぇ、父さんとの思い出の靴なの。大事に使ってね」
「こんなぼろ靴なんていらないよ。母さんが大事にとっとけば? 明日、約束あるからもう切るね」
買ってきた弁当をビニールの袋から取り出した。おかずの鮭(しゃけ)は固く、塩辛い。この弁当は失敗だった、そう思いながらも、残さず食べた。
カーテンの隙間から漏れる光で奈保は目を覚ました。枕元の目覚まし時計を見て、飛び起きた。
約束はない。あるのは、燃えるゴミ出しだけだ。
部屋着の上にロングカーディガンを羽織り、アパートから十メートル先のゴミ収集所へと駆けこむ。収集車が来る直前にゴミ出しを終え、部屋に戻ろうとすると、足が止まった。
アスファルトの割れ目に花が咲いていた。ぽっかりと日だまりに生えている名前も知らない小さな花の白さが眩(まぶ)しい。
足元を見ると、慌てて履いて出てきたのは昨日母から届いた古びた靴だった。
空を見上げると、雲一つない秋晴れだ。休みの日は疲れたと外に一歩も出ず、家の中で休むことが多く、外に出るのは久しぶりだ。
このまま家に戻るのはなんだかもったいない気がして、靴にかかとをきちんと入れた途端、足が導かれるように家とは反対方向の道へ進んだ。
今まで来たことがない住宅が立ち並ぶ細い道を歩いていると、また足が止まった。ふと横を向き、家と家との隙間を覗いた。隙間は陰になっているが、室外機の上にはうまいこと日が差している。その一番日当たりのいい場所で、二匹の猫がのんびり丸まってくつろいでいた。猫たちを驚かせないようにと、前に向き直った。
住宅街を抜けると、細い川に突き当たった。さほど多くもない水がゆったりと流れている。川のせせらぎが耳に届く。水面(みなも)に目をやると、流れとともにリズミカルに踊るきらめきを見つけた。
靴が重くなり、立ち止まった。橋の欄干(らんかん)に体を預け、川の流れを目で追った。川の両端(りょうはし)を縁取(ふちど)るように、金の穂をつけたすすきが頭を揺らしていた。
頰をやさしく撫(な)でる風が心地よく、背中は昇ってきた太陽に照らされ、暖かくなってきた。いつまでもこうしていたい気分だったが、お腹がきゅーと小さい音を立てた。
家に帰り、朝ごはんをすませた後、思い立って靴箱を覗いた。靴や靴の空箱が雑多に詰め込まれた靴箱の奥に、瓶詰の靴クリームを見つけ、引っ張り出した。
布にクリームをつけ、最初は靴の目立たない場所でクリームをなじませた。大丈夫そうだと確認すると、クリームを靴全体に丁寧に行き渡らせる。
手慣れてくると、布が靴の上を滑るようになめらかに動き、磨(みが)くのが徐々に楽しくなってきた。もう片方の靴に取り掛かるころには、鼻歌を歌っていた。
新品同様、とまではいかないが、くたびれていた靴は少しだけしゃんと胸を張ったような艶(つや)を取り戻した。
玄関に磨き上げたばかりの靴を揃えて、足を入れた。
玄関を開けると、土や草の香りが地面からじんわりと立ち上ってきた。雨上がりのにおいだ。靴を磨いている間に通り雨でも降ったのだろう。
朝に靴を履いた時よりも、奈保の足取りは軽く、靴が喜んでいるのだろうか、という考えが浮かんだ。
靴を履いているというより、靴に連れられて歩いているような気分になる。旅行好きの友人と一緒に旅をして、見どころを教えてもらいながら歩いているような安心感がある。
歩道を歩いていると、自然と歩みがゆるやかになった。歩道の脇のきちんと刈り込まれたツツジの葉が雨に濡れ、濃緑に染まっている。
よく見ると、ツツジの葉に幾本もの細い糸が絡みついている。クモの巣だ。細い銀糸についた雨粒が日を反射して輝きを放っている。
足は完全に止まって、動かない。まだ何か気が付いていない景色があるのだろうか、奈保は目を凝らして周りを見渡すが何もない。
微(かす)かに鼻をくすぐる程度の甘い香りがするのに気が付き、深呼吸した。そう、金木犀(きんもくせい)の香りだ。奈保は目を閉じて、もう一度深呼吸した。
真っ赤に燃える夕日が空に溶けるように沈んでいくところだった。
夕日がすっかり沈み、夕闇と明るさが混じり合った空になった。徐々に、夕闇が残った明るさを食っていく。
「すてきだね」
そう口に出してから、誰も傍(そば)にいないことに気が付いた。
月曜日の朝、あの革靴を履いてしまったのがいけなかった。
靴を履くと、ゆるやかな気分になる。木の葉の隙間から地面に落ちる三日月形の木漏れ日に見とれ、鳥のさえずりが聞こえれば、その声の主を探してしまう。
そんなことを繰り返していると、アパートから駅まで、普段なら十分のところを気が付けば倍の二十分もかかっていた。
会社に遅刻したら困ると、会社の最寄りの駅で降りてから、奈保は靴の意思に逆らい、足を引きずるように歩いた。靴の意思通りに歩いていた時とは大違いで、石でできた靴を履いているように重く、履き心地も悪い。
遅刻は免(まぬが)れたものの、会社に着くころにはひどく体力を消耗した気分だった。ロッカーに置いてあった社内用サンダルに履き替え、脱いだ革靴を乱暴にロッカーに放り込んだ。
どうもこの朝の一件で、靴が機嫌を損ねたようだ。
帰る時になり、靴を履き替えたものの、やけにせかせかと足が進む。足が先に出るので、上半身が置いていかれ、何度も後ろにひっくり返りそうになる。こんなに足が速く進むと、気分まで急かされる。
駅まであと少しというところで、足の裏に奇妙な感触を覚え立ち止まると、つんとしたにおいが鼻をついた。
犬の糞(ふん)を踏んでしまったようだ。靴の機嫌は一向に直らず、駅の改札に入ると、改札を出ようとする人ごみの方へと向かって行った。
帰宅ラッシュで込み合っている人ごみに紛れ込んだ奈保に、次々と肩がぶつかり、ちっという舌打ちも耳に届く。その度に肩を縮こまらせ、背中も丸くし、邪魔にならないようにするが、体、肩、カバンがどんどんと奈保を打つ。
人ごみをやり過ごしたと思った次の瞬間、足が先に出て、お尻から地面に転んだ。バッグから財布やポーチが飛び散った。
何本もの足が奈保を避(よ)け、通りすぎていく。その中の一足の靴が立ち止まった。
「大丈夫ですか」
頭上からかけられた優しげな声に心地よさを感じ、奈保はゆっくりと顔を上げた。
満開に咲く桜のトンネルをゆっくりと進んだ。奈保がくすっと小さな思い出し笑いをした。
「何かいいことあった?」
隣を歩く彼が聞いた。奈保は彼の髪についた桜の花びらをつまみあげ、ふっと吹いて、風に飛ばした。
「教えてあげない」
きょとんとした顔の彼を見た後、奈保は靴に目を落とした。誕生日に母から聞いた『父さんとの思い出の靴』という言葉がよみがえる。
ふたりは歩調を合わせ、目の前に続く桜並木を歩んでいった。
1990年、アメリカ合衆国バージニア州シャーロッツビル生まれ。長野県松本市育ち。
長野県松本深志高等学校卒業。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。
現在、ショートショート研究会所属。研究会初のアンソロジー本『ネコ氏の遊園地』を刊行。
優秀賞に選んでいただき、ありがとうございます。審査に関わったすべての方に感謝申し上げます。大学時代からの創作仲間との合言葉「かたつむりのようにゆっくりと、でも確実に進む」。その歩みが今回の受賞につながったと思っています。また、創作の励みになったショートショート研究会の個性豊かなメンバーにもこの場をお借りして、アリが十匹。ショートショートの読む書く両方の魅力をもっと多くの人に知ってもらいたいです。
ああ、いいなぁ…と、温かく幸せな気持ちにさせてくれる作品でした。靴というモチーフはよく使われ、アイデアにもそれほどの新しさはありませんが、その活かし方、ディティールの描き方が秀逸です。逆に言えば、アイデア面で大きな伸び代があり、今後が楽しみです。ストーリーがすっと頭に入ってくるので、ごく普通の文章のように思えますが、飽きさせない筆力は本物であり、本作にとどまらず他の作品も書けるでしょう。
文体に別段特徴はなく、また「靴」というアイテムにも新鮮さは感じられないのに気が付くと作品に入り込んでいたのは、主人公の日常にリアリティを持たせる描写に優れているからでしょう。例えば「深いため息が暗い部屋に広がり、体が一段とベッドのマットレスに沈みこむ」や「七コール目を数えたところでつながった」、「この弁当は失敗だった、そう思いながらも、残さず食べた」など、短い作品ながら具体例には枚挙にいとまがありません。爽やかな読後感のエンディングも好印象でした。反面、こうすればもっとよくなるのにと思わせる惜しいところも散見されたので、細部にまで持ち前の描写力を行き渡らせることができれば飛躍的によくなるという可能性を感じ、選出となりました。