「ぼくはもう、水商売を卒業するから、とっておきの店を教えてあげる」
そう言って春夜(しゅんや)さんはおれの手をとると、名刺を一枚握らせた。
その手は白く、やわらかく、しっとりとあたたかくて、男同士でもどきりとするほどだった。
新宿の夜の光をあつめたように華やかな人。その憧れの先輩の後ろ姿を、おれはいつまでも、いつまでも見つめていた。
『超舌食堂』と書かれた名刺の裏には、小さな文字で一行、何か記されていた。宮城県仙台市……国分町(こくぶんちよう)……住所のようだ。宮城県仙台市……東北? 春夜さんの実家は確か名古屋だ。春夜さんの下について約二年、おれはかなりの時間を共にしたが、一度も仙台や東北が出てきたことはなかった。
住所を見て、一瞬からだを硬くしてしまったが、ホストは縦社会。しかも、大好きな春夜さんが卒業の置きみやげに手渡してくれた名刺。東北だろうと、北極だろうと行くしかない。『超舌』という名前も怪しい以外の何ものでもないが、すべては芸の肥やしだ。おれはさっそく新幹線のチケットをネット予約した。
東北=北の方=ものすごく遠い場所、と思っていたが、仙台へは速い列車を選べば東京駅から約一時間三十分で着く。一時間三十分って、鎌倉から都心の会社に勤める兄貴の通勤時間よりちょっと長いくらいじゃないか? 余裕で日帰りできる。
住所に書かれていた仙台の国分町という場所は《東北一の歓楽街》とガイドブックに紹介されているだけあって飲食店や風俗店がひしめきあっていた。それでいて、新宿のようなどぎつさがなく、田舎でもなく、すべてが程よい感じだった。
メインストリートからだいぶ離れた小道をさらに奥へ入った雑居ビルは、中で何をやっているのかわからない扉が並んでいる。
おれは覚悟を決め、名刺と同じ書体で『超舌食堂』と書かれた暖簾(のれん)をくぐった。だがそこは、ご飯の炊ける甘い匂いとパチパチと油がはねる音が広がる、カウンターだけの地味な食堂のようだった。
客は水商売風の若い女性と、ロレックスに散りばめられたダイヤを愛(いと)おしそうに眺める中年男性の二人。いずれも食事を終えた後のようで、ぼんやりとテレビを見ていた。
割烹着を着た大将は小さな声で「いらっしゃい」とつぶやくと、そのまま黙って料理を続けた。深夜番組に出てくる食堂とイメージがかぶる。
おれは店内に貼ってあるメニューに視線を向けた。
【饒舌(じょうぜつ)】
【毒舌】
【二枚舌】
【巻き舌】
【舌たらず】
【ナンパ舌】
【マジメ舌】
※定食にはごはん、みそ汁、ネギサラダ、お新香がつきます。
※盛り合わせできます。
「お兄ちゃん、この店初めてだろ」
何度読み返しても意味がわからない壁の貼り紙を見て固まっているおれに、中年男性が話しかけてきた。
「あ、はい。先輩の、春夜さんの紹介で……」
トントントン、とリズムよく音を響かせていた大将の包丁がとまる。お茶を飲んでいた若い女性が、上から下までスキャンするような目でおれを見る。男がにやりと笑う。
「じゃあ、あんた、ホストか。しかも売れない方の」
おれは何と言っていいかわからず、ただぽかんと口を開けていた。
こういう場面ですぐ切り返せないところが、指摘通り『売れないホスト』なのだろう。
実際、今月はもう十日も過ぎているというのに未だ同伴ゼロ。かるく動揺したおれを
さとすように男が言う。
「仙台と言えば牛タンだろ。牛タンの有名店は数あれど、ここのはただの牛じゃない。
特別に訓練された牛の舌だ。ここの牛タンを食べると、消化されるまでそのチカラが継続するんだ」
「チカラ?」
漠然とした説明が理解できず、おれは聞き返した。
「舌力だ」
「ぜつりょく?」
「そう。舌のチカラだ。
【饒舌】はおしゃべりのエリート教育を受けた牛の舌、【毒舌】は手厳しいことをズバズバ言うように仕込まれた牛、【二枚舌】は絶対にバレない噓が条件反射的につけるようトレーニングを受けた牛……この特殊教育を受けた牛の舌を食べると、その能力を体内に吸収することができる。
人は食べ物からできているんだ。わかるか?
心を変えるより舌力を身につけた方が人生はうまくいく。古くからここ仙台の成功者はみんなこの牛を食べてきたんだ。そう、あの伊達政宗公だってこの牛を食べたという噂だ」
そういうと、男はガハハ、と豪快に笑った。おれもつられてアハハと笑うふりをして男のグラスをのぞいたが酒が入っている様子はない。とすると、もしかして仙台ジョーク?
それにしてもさっきから一言もしゃべらない大将も怪しい。やはり、ヤバい客が集まるヤバい店なんだろうか。
黙って立ち去りたい気持ちでいっぱいだったが、成り行き上そうも行かずおれは渋々【饒舌】を定食で頼んだ。
それは普通に牛タンとして美味(おい)しかったがそれだけ。おれはそそくさと店を出た。
せっかく仙台まで来たことだし、帰りの新幹線までまだ時間があったのでおれは街を少し歩くことにした。角を曲がった先で、美人と目があう。素人だが整った顔。年齢は二十五〜二十六歳、ベージュのリボンパンプス、ホストクラブには来ないタイプ。
女性を見ると職業病的に値踏みし、客になる見込みがあるか否かを分析してしまう。客になる見込みはないし、第一ここはおれのテリトリーじゃない。おれはそのままスルーした。
……はずだった。
「すみません、いま何時か教えてもらえますか?」
舌が勝手に動く。
「五時三十分を少しまわったところです」
「貴女の時間は五時三十分……なんという偶然。僕の時間と一緒だ。これって運命?」
一瞬、自分の耳と口を疑った。こんなコテコテの昭和古典芸みたいなセリフを、おれは知らない。しかも客になる見込みもない相手に……。
しかし、東北美人は変なツボに入ってしまったらしく、
「やだぁ」
とクスクス笑っていた。
それが饒舌定食のチカラを感じた初めての出来事だった。
夕方の新幹線に乗り、夜の出勤には余裕で間に合った。舌力は店でも続き、その夜おれはかつてないほど饒舌で、ヘルプでついていたのに気に入られ、シャンパンを二本も入れてもらった。
この成功体験から、おれはすっかり超舌食堂の信者となり、可能な限り出勤前にランチをしに仙台へ足を運んだ。
食べれば食べるほど舌力は上がる。おれの舌はもはや、とどまるところを知らないほどなめらかになり、成績はグングン上がった。饒舌をベースに、𠮟ってほしいM女が来る日は毒舌を、バブル期をひきずるキャリア女性には巻き舌を、ホストをペットや自分の支配対象だと思いたい女王様には舌たらずで上目遣い……。
相手が求めるキャラにふさわしい定食を食べ、カメレオンのようにその役を演じきった。
超舌食堂には「舌力」を求め全国からお忍びで訪れる人も多かった。
テレビでよく見る弁護士も、政治家も、お笑い芸人も俳優も社長も……その道で「舌」を使って上を目指す者が血走った目でやってきた。そして、気づけばおれも業界では知らない人がいないほど有名になり、超舌食堂へ行かずとも売上を上げられるような実力をつけていた。
そんなある日のこと。超舌食堂の大将から電話が入った。今月限りで引退するという。おれのホスト人生の成功を支えてくれた人だ。おれは次の日、早起きして東北新幹線に乗った。
『超舌食堂』の懐かしい暖簾をくぐると大将の姿はなく、かわりに茶髪にキャスケットをかぶり、牛柄のファンシーなエプロンをつけた若者がカウンターの内側に立っていた。
「はいどうも、いらっしゃいませ〜‼」
妙に高い声で若者はおれに歯を見せて笑いかけてくる。
おまえは、ホストか! 心の中でつっこみを入れていると、背後から大将が顔をだし、頭を深々と下げた。
「どうしたんですか? どこか具合でも悪いんですか?」
「いえ、身体はまだまだ元気なんですけど、やはりこれも時代の波かなと思ってね。私はここらで幕をおろして、あとは息子にゆずろうと思うんです。これからは新しい超舌食堂として、《安く、早く、たくさん》お出しします。今日は私のおごりですからどうぞ食べてってください」
寂しそうに話す大将の後ろから息子が、スキップするような軽い足取りで「おまたせっす〜」と焼きたての牛タンをおれの前に差し出した。
見た目は今までの定食と何らかわりはない。それにしてもこいつがあの大将の息子? チャラすぎる……そんなことを思いながら、牛タンを口に運んだ。
「Mmm...Yummy! I love it!」
あれ?
不意に出たノリノリの英語に驚き、そして肉をじっと見た。この肉……。
「お好きな饒舌定食です」
大将は小さな声で少し申し訳なさそうに言った。
「ただし、仙台牛ではなく、オージービーフになったんです」
春夜さん、今どこで何してますか?
おれは、Omotenashiの波に乗り外国人からの指名ナンバー1ホストになりました。
宮城県仙台市出身。
青山学院大学国際政治経済学部卒業後、コピーライターに。その後デザイン会社、広告代理店を経て独立、現在はフリーランス。朝日広告賞、毎日広告デザイン賞などを受賞。約2年前、アイディア力の向上を探るうちにショートショートの世界を知る。
「筆の駅」
よりよい筆に乗り換えられると言われる「筆の駅」があった。
チャンスは年に1回。
健筆、才筆、あそび筆、迷い筆……たくさんの筆が駅をめざした。
ある遅筆は、とちゅう軸が割れ、穂もズタボロになってしまった。
けれど、引き返そうにも道がわからないので駅をめざした。
気づくと遅筆は「筆の駅」で乗り換えの列に並んでいた。
あまりに遅すぎて、ちょうど1年後の乗り換え日に到着したのだった。
アイデアが泉のように尽きることなく「これでもか」というほど溢れてきて、読むだけで自分の世界が広がっていくような、ワクワクした気持ちになりました。次はどんな展開になるのだろうかとつい期待してしまうのですが、軽くそれを凌駕してくる手腕にはお手上げです。そして何より極上なのが、最後の二文。「そうきたか!」と思うと同時に笑わされ、秀逸です。次回作でアイデアが炸裂する様子も、ぜひ見させていただきたいと強く思わされました。
勢いがある作品で、一気に読まされた。仙台の名物である牛タンを題材にユニークな物語を展開しているのだが、せっかくご当地ネタを扱うのであれば、もっとその土地の雰囲気を感じさせる描写がほしかった。また意図的なのかそうでないのか、思わせぶりな部分を回収していない箇所があり、そこも気になった。とはいえ、主人公の職業であるホストからイメージされる軽さと作風がよく合っていて、全体としては短い中に多くのセンスを感じさせるレベルの高い作品と感じた。特に最後は、おもしろい漫才師のオチのように見事。
第2回ショートショート大賞の受賞作です。大賞1作品、優秀賞3作品が選ばれました。以下から受賞作を読むことができます。
第1回ショートショート大賞の受賞作です。大賞1作品、優秀賞3作品が選ばれました。以下から受賞作を読むことができます。